1945年3月10日、現在の台東区、墨田区、江東区と下町界隈を中心に一晩で10万人を越す死者を出した東京大空襲。
犠牲になられた方の約4割が、小さな子供を含む未成年の方々だったそうです。
このテーマは少し重いので、もう一つ運営している別のサイトだけでとも思いましたが、東京大空襲では多くの子供が犠牲になったのと、今でもお出かけスポットで傷跡を見ることができるので、少しだけこの「お出かけいく」でも記載したいと思います。
上野公園
一晩で多くの死者を出した東京大空襲。
一夜明けると、身元も分からない丸焦げのご遺体がいたるところにあったそうです。
そのご遺体を仮埋葬した場所がいくつかあります。
その1つが、今もたくさんの観光客で賑わう上野公園です。
上野公園では約8000人以上のご遺体が仮埋葬されたといわれています。
西郷隆盛像の裏あたりに、母子像、時忘れじの塔があります。
昭和の爆笑王、林家三平師匠のおかみさんである海老名香葉子さんにより建立されました。海老名香葉子さんご自身も、東京大空襲でご両親ご兄弟を失っています。
毎年3月9日に、地域住民はじめ地元の幼稚園の園児や、小学校の児童も参加して「時忘れじの集い」が行われています。
浅草寺
浅草寺界隈は一面火の海で、本堂も五重塔も焼け落ちてしまいました。
そんななか残ったのが、本殿右横(隅田川側)に今もある銀杏の木です。
銀杏は水分を多く含み、火災にも比較的強い樹木だそうです。
70年以上経った今でも、炭化した表面を見ることができます。
木の上部まで黒く炭化していました。東京大空襲の激しさを物語っています。
本殿左横(上野側)には、浅草大平和塔があります。
建設趣意には「地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあぶられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい・・・」と記載されています。
また、塔にはノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の言葉が刻まれています。
脇には旧浅草芸妓屋組合が建立した、戦災供養地蔵尊がありました。
言問橋とスカイツリー
浅草からスカイツリーへと向かう、言問橋にも東京大空襲の傷跡を残しています。
言問橋では、対岸へ逃げる群衆の荷物に火がつき猛火に見舞われました。
この橋の上で何千という人々が焼け死んだそうです。
となりの吾妻橋を渡って逃げのびた方からの証言を聞いたことがありますが、吾妻橋では荷物を川へ捨てるように軍の将校の指示があったため被害は小さかったようです。
また言問橋が、橋の形に光っていた(燃えていた)そうです。
言問橋は、平成に入ってからの改修工事で多くの痕跡が消えてしまいましたが、今でも当時のままの石柱には、焼け死んだ人々の血痕や脂が焼き付いたといわれている黒く焦げた箇所が残っています。
言問橋の浅草側のたもとにある隅田公園の入口近くに、東京大空襲の慰霊碑があります。
こちらでも毎年、東京大空襲のあった3月10日前後に慰霊祭が執り行なわれていますが、年々参加者も少なくなってきているそうです。
毎年3月10日のスカイツリーは、東京大空襲の鎮魂の思いを込めて白くライティングされます。
下町地区には、他にも多くの東京大空襲の傷跡や碑、関連施設がありますが、ほんの一部を紹介させていただきました。
冒頭でも書きましたが、東京大空襲で亡くなった人の約4割は子供を中心とした未成年の方々でした。
季節柄、疎開先から卒業式、進学のために、ちょうど帰京して大空襲にあい亡くなった子たちも多くいたそうです。
人が起こす戦争が、この地上からなくなる日がくることを祈って